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NIREニュ−ス

1995年5月

熱帯アジア:生物地球化学的秘境?

大気圏環境保全部 大気計測研究室 上田真吾

1.はじめに
 生物地球化学分野における温室効果ガス研究に残された課題は,熱帯アジアに分布している発生源に関する情報を収集することであろう。合衆国やヨーロッパの国々が研究を展開しているアマゾン地域やアフリカ地域と比較し,余りにも報告が少ないからである。 南北に長いタイ国は,熱帯の多様な生態系を観察するのに都合が良い。また,親日的な国民感情は,きめの細かいケーススタディーを実施する上で頼りとなる。
 筆者はこの5年間,科学研究費補助金による「アジア太平洋地域を中心とする地球環境変動の研究」の課題「アジア地域の陸域生態系における温室効果ガスの動態とその制御」に携わってきた。

 タイ国の泥炭湿地林における温室効果ガスの代謝過程を追跡することがその目的であった。昨年度からは,これを科学技術振興調整費総合研究の課題「温暖化物質発生量評価手法の高度化」に発展させ,湿地林以外の生態系を視野に納めた“安定同位体比測定による温室効果ガスの発生源キャラクタリゼーション”を実施している。
 成り行き上か,あるいは筆者の南方系遺伝子がそうさせているのかはともかく,当分の間はタイ国を中心に熱帯アジアとのお付き合いが続くことになる。 この場を借りて,タイ国との共同研究の現状と,これまでに筆者が見聞したことを紹介し,併せて筆者の専門である安定同位体を利用した生物地球化学について宣伝する。
 NIREニュースに研究の進捗状況を紹介された先人達には申し訳ないが,斯様な雑文を書くことをお許しいただきたい。
2.研究体制
 タイ側のカウンターパートは農業省土地開発局,共同研究者のピスット博士(Dr.Pisoot Vijarnsorn:写真1)は,陽気でアクティブな土壌学者である。 彼の強みは,タイ全土に渡って土壌の物理化学特性を掌握していることである。またスタッフが全国に散って活動していることは,我々の大きな助けとなっている。 クロマトグラフィーを専門とする,ソンクラ大学のカナタラナ助教授(Dr.Proespichaya Kanatharana:写真2)には,研究協力者として参加していただいている。 彼女の学生は真撃にして勤勉,己の学生時代を反省することが少なくない。 学生諸氏は,フィールドとラボの両方において,我々の戦力として欠くことのできない存在である。

 これまでの共同研究の過程で,メタンと二酸化炭素の濃度を測定するためのガスクロマトグラフを土地開発局に,亜酸化窒素濃度を測定するためのガスクロマトグラフをソンクラ大学に,それぞれ設置することができた。 互いに試行錯誤を経た現在では,タイ側が独自に上記の温室効果ガスの土壌−大気間フラックスを測定できる体制が確立されている。本年度からは,後述する4つのテストサイトにおいて,月に1度の頻度のフラックス測定を開始する。

 筆者らの分担は,軽元素安定同位体比測定による温室効果ガスの発生源キャラクタリゼーションである。具体的には,温室効果ガス自体と,温室効果ガスの起源物質である有機物の安定同位体比を測定し,これをデータセットに組み立てる。 温室効果ガスの安定同位体比が,(1)起源物質の安定同位体比と,(2)生成反応に固有の同位体分別で規定される関係を利用すれば,生成メカニズム別に温室効果ガスの発生量を推定できるからである。
 安定同位体フインガ−プリントを利用して,温室効果ガスの収支を算定する際の精度を向上させることが研究の最終日標である。 ただし,こちらの方は安定同位体比の測定に必要となる質量分析装置や前処理のための装置を調達しながら,計測の体制を構築している途上である。安定同位体比の利用については,後でまた述べる。

 研究対象地域は,北から,チェンマイ(常緑樹林),カンチャナブリ(落葉広葉樹林),パン方(マングローブ林),ナラチワ(湿地林)の4地域である(図1)。
 前三地域は,いずれも観光地として知られる。美しい自然を求めて人が漫遊することを考えれば,至極当然である。ゆめ,ツーリストスポットをテストサイトに選んだ訳ではないので,念のため。
 タイ全土はモンスーン気候帯に属し,インド洋からの季節風と,タイ湾を通過する南シナ海からの季節風の影響を強く受けている。 ただし,チェンマイとカンチャナブリの一年は,冬季・夏季・雨季の3つの季節に区分されるが,マレー半島の付け根に位置するパンガとナラチワでは,乾季と雨季のみに大別される。
 このように,降水量の季節変化を主因とする気候の違いと,土壌の物理化学特性の違いが,上記4地域に異なる植生を与える結果となっている。

3.熱帯泥炭湿地林
 タイ人には敬虔な仏教徒が多いが,マレーシアに隣接するナラチワ州では住民の約8割がイスラム教徒である。
 10年遡れば,共産ゲリラが出没したこの地だが,最近はどこかに消え失せたらしい。ただ,仏教徒とイスラム教徒との軋轢は根強く,モスクが放火されたり,逆に仏教徒の子女が通う小学校が焼かれるといった事件は散発する。
 宗教上の対立を越えて,この地域の人々が抱える共通の問題は,貧困である。ナラチワ州住民の平均所得は,タイ国内で最も低い。 これとは対照的に,ナラチワには王室の離宮がある。現在の国王が后に求婚した場所と言われる浜辺で一月を過ごすため,毎年9月には国王一家がここを訪れる。 筆者が利用する空港も,このために湿地林を切り開いて建設された飛行場である。このように王室が定期的に南の辺境に足を運ぶのは,いわば国境対策であり,政府がこの地の発展に積極的であることを宣伝するためといわれている。

 ナラチワ州には,熱帯雨林帯への入り口に相当する熱帯泥炭湿地林(tropical peat swamp forest)が発達している。 筆者らは,この地域の二つの湿地林を選んで観測を実施している。一つはバチョー混地帯,もう一方がトデン湿地帯である。 バチョー湿地帯(写真3)では,湿地林が大規模に開発され,もはや原植生を見ることはできない。先述の離宮近くにある王立ピクントン土地開発研究センターでは,現在も湿地林開発のため様々な研究と事業が展開されている。 筆者らも,同センターを現地調査のベースキャンプとして利用させていただいている。

 バチョー湿地の開発の経緯と,その顛末は以下の通りである。まず湿地林が伐採され,その後火入れが実施された。これと並行して,湿地を排水するために大規模な水路が建設された。 しかし,この地域は海抜が低く,加えて沿岸の潮流が強いために水路の出口が砂で埋まってしまい,排水事業の成果は芳しくなかった。このため雨季には洪水が,乾季は干ばつが問題となっている。 作物を育てる上では,養分に乏しく鉱物含有量が極端に少ない泥炭の物理特性が問題となり,本格的に土壌を改良する必要がある。 多くの試行錯誤の結果,泥炭湿地林を農地として利用するためには,莫大な資金投入が必要なことが明らかとなったわけである。かといって,原植生を一端切り開いた後は,乾季の火災や焼き畑の延焼等により,自然遷移による湿地林の再生は難しい。

 日本政府の援助により,ナラチワ州最大のバンナラ河に防潮ダムが建設されたのは,実は乾季におけるバチョー湿地帯の潅漑が主たる目的であった。日本の報道によれば,タイ側による揚水場の建設が遅れているため,潅漑水の利用率は今のところ計画の3割に達していない。 今年始め,日本側が潅漑施設の早期建設を求めたのに対し,タイ側は,依然塩分が高いために河川水を潅漑に利用できないため,淡水化を待っているところと反論した。 河岸のマングローブは既に枯れ始め,いずれバンナラ河が淡水化することは間違いない。
 筆者は,将来的には塩分よりも,むしろ河川水の酸性化が問題となることを懸念している。季節と場所にもよるが,河川水のpHが4以下となることが珍しくないからである。これは,植被を除去した湿地の泥炭層が薄くなり,下層土に酸素が供給された結果,海生層に蓄積したパイライトが酸化されて硫酸を生成するためである。 温室効果ガス代謝と,集水域で生成される硫酸の量に一定の関係があることもわかってきており,アジア低地における特徴として注目される。
 マレーシアとの国境をなすコロク河の集水域であるトデン湿地帯(写真4)では,今も原植生が保存され,樹高30mを越す湿地林を見ることができる。 とは言え,樹高70m級の熱帯雨林と比較すると,湿地林は貧相である。これは湿地林の泥炭土壌が一年中冠水しているために地盤が軟弱だからである。 トデン湿地帯には,先述のダム建設で懐をあたためた日系の建設会社が建設し,王立ピクントン土地開発研究センターに寄贈した観測塔がある。 現在では,「シェリントン泥炭湿地林研究センター(シェリントン女史はタイ国民の信望を集めている第二王女)」も併設され,混地林研究のセンターとなっている。

 実際,湿地林には多様な生き物が棲んでおり,これを人類の将来に資する遺伝子保管庫の一つと見なすことができる。ただし,蚊は我々にとっての厄介者である。この地域の蚊の1%程度がマラリア原虫とフイラリア原虫のキャリアーだからである。 マラリア患者の数は近年減少傾向にあるとのことだが,逆にフイラリア(象皮病)の罹病率は増加しつつあり,問題化している。

 国境の町スンガイコロクのホテルでは,観光客に注意を喚起するために,ロビーでビデオを上映している。ちなみに,筆者が観測塔で昼夜観測を行った際(写真5)には,それはもうおびただしい数の蚊の攻撃を受けた。 気温の下がり始める午後4時頃に始まり,夜の8時頃には,おもしろいくらいにピクリと終わった。現地の人は夕方は森に近づかないそうである。

 大気中二酸化炭素のシンクとして,海洋生態と陸上生態系のどちらが大きな役割を果たしているのか,議論の最中である。泥炭湿地は,植物遺骸が分解されずに蓄積した有機態炭素の固まりである。 泥炭の量が現在でも増加し続けているなら,湿地林は大気中二酸化炭素のシンクとして機能していることになる。
 しかし,ひとたび樹木が伐採されると,泥炭の好気的分解と乾季の火災により,大量の二酸化炭素が大気に放出されることになる。これらの点から,トデン湿地とバチョー湿地の比較研究は興味深い。 二酸化炭素の場合とは一見矛盾するようだが,メタンの発生量は,常に冠水したトデン湿地帯よりも,乾季に土壌が乾燥するバチョー湿地帯の方が高いことがある。バチョー湿地帯では,好気的な条件下で難分解性有機物の分解に伴い有機酸などの低分子フラグメントが供給され,これがメタン生成の基質として利用されるためと考えられる。
 このような温室効果ガスのダイナミックな代謝の解析に,軽元素安定同位体比の測定を利用することも研究目標の一つである。

4.高地森林
 熱帯低地に分布する湿地林は魅惑的な生態系だが,陸地に占める面積で見た場合にはアップランドの森林が圧倒的に多数派である。 過去5年間に実施した研究と現在の課題との違いは,軽元素安定同位体比測定を新たな手法に採用したことともに,高地の森林を研究対象に加えたことである。
 このため,平成6年11月に現地を視察し,カンチャナブリ州にある王立林野局付属のメクロン集水城研究施設(Mae-Klong Water-shed Research Station)内とチャンマイのドイ・インタノン国立公園(Doi Inthanon National Park)内の森林に,テストサイトを設置することにした。 これらアップランドの森林では,森林土壌によるメタンの消失と亜酸化窒素の生産が研究の中心となる。
 カンチャナブリは映画「Bridge over the trouble water」で知られた町である。なるほどクウェイ河の流れは速く,その向こうのミャンマーとの山岳国境は険しい。17ケ月の突貫工事で戦場に架けた橋はわずか22ヶ月後に破壊されたが,市街地にある戦争捕虜の墓地では,現在でもヨーロッパからの墓参者の姿が絶えない。 カンチャナブリ州は周囲を山に囲まれ,寒暖の差が大きく,夏季と乾季の乾燥が厳しいため,この地域の潜在自然植生は落葉広葉樹林である。しかし,森林のほとんどには笹や竹が侵入しており,過去に人の手が入った形跡が認められる。これを裏付けるように,斜面が急で木を切り出すことができない山頂付近では,原植生をみることができる。

 この春からは,先述のメクロン集水域研究施設内の竹混じりの落葉広葉樹林内に2つの観測点を設け,月に1度の頻度で温室効果ガスのフラックス測定を行っている(写真6)。
 同施設では,当所の広域域間研究室によるものを含め,多くのプロジェクト研究が実施されている。このため,研究者どうしが情報を共有できるところが魅力である。施設長のソンタム博士(Dr.Songtam Suksawang)は筆者と同い年。ここでは材料を町のマーケットで調達してから山に入り,調理して食べる生活である。

 一方の,チャンマイ州のドイ・インタノン国立公園には,タイ最高峰のインタノン山がある。ここでは山裾から山頂まで標高とともに植生が変化する。山頂には陸軍のレーダー基地があるため,道路の整備が良く,異なる標高での森林へのアクセスが容易である。 山腹の熱帯常緑樹林帯と針葉樹林帯とにテストサイトを設置する手はずとなっており,タイ側の対応が早ければ,今年の夏にも観測を開始することとなる。

5.マングローブ林
 パンガ州は,タイ国で最大のマングローブ林を保有する地域である。石灰岩の美しい景色は中国の桂林に例えられ,特に007シリーズのロケが行われて以来,観光客の人気が高い。筆者らの調査地点の一つは,通称ジェームスボンド・アイランドと称される小島の沖 100mの地点にある。
 パンガ湾では干満の差が3mにも達し,十数種類ものマングローブが多様な潮汐条件と土壌環境に適応して生息している(写真7)。 潮の干満に伴う酸化と還元の周期的な繰り返しは,有機物の分解にとって好都合である。先述のバチョー湿地の一年間が一日に相当するわけで,まさに酸化還元反応のホットスポットである。そこでは温室効果ガスのダイナミックな挙動を見ることができよう。 しかし,これまでマングローブ林における温室効果ガスの代謝に関しては,ほとんど研究の例がない。現在,予備調査を終了した段階だが,本年8月からは,月に一度の頻度で温室効果ガスのフラックス測定を開始することになる。

 ところで,マングローブ林とその後背林との中間領域には,高さが1m以上にも達する塚(写真8)を作るシャコ(マッド・ロブスター)が生息している。近年このシャコの個体群が増大し,これと逆比例するようにある種のマングローブの現存量が減少することがわかってきた。 シャコの個体数を増加させる原因は何か?生息地は陸の末端に当たるわけで,陸域の人間活動の影響を最初に,しかも最も強く受けることになる。
 もし,人間活動由来の有機物を利用することで,シャコの個体数が増加したのだとすると,人口増加をトリガーとし,シャコの生態を介したマングローブ林の遷移が進行している可能性がある。 この興味深い仮説については,今年度より開始する研究課題「マングローブ林における栄養塩循環関する研究(科学研究費補助金)」において,安定同位体の応用例の一つとして取り上げていくつもりである。

6.生物地坪化学における安定同位元素の利用
 一見関無関係のように見える現象どうしが,実は影響しあっていることや,それどころか,一方が他方を規定している場合がある。人類の存続と発展のためには,現象の解明や技術革新を狙った研究が不可欠だが,そこから得た結果の結びつきを考えるような研究が一方で必要となる。 この観点から,日本では特に知名度の低い「生物地球化学」について宣伝しておきたい。
 生物地球化学は惑星地球における物質の輪廻を問う学問である。重要なキーワードは生物という枕詞である。生物(ヒトを含む)がシステムに加わることにより,化学平衡を前提とする地質学的な物質循環とは較べものにならない速度で物質は姿を変え,移動する。 温室効果ガスの生成と消滅のような,非平衡型の物質循環を考える際,陸・水・大気という三圏分立論は,もはや成り立たない。 例えば,なぜマングローブ林でシャコが増え,それが物質の循環をどの様に変えることになるのかを考えることは,時間的スケールが異なるだけで,大気の二酸化炭素収支を考える上で必要となる。 人工化学物質の生体濃縮や,湖沼の酸性化など多くの環境問題においても,同様のことが言えるであろう。どこが非平衡なのか,それはなぜかを考える上でのフレームワークを提供することが,環境科学における生物地球化学者の役割である。
 ここで注意しなければなないことは,ケーススタディー,特にフィールドを対象とした研究のアウトプットが,時として単なる場の科学,現象の記述で終わってしまうことである。これは,対象とする環境により,あるいは研究者の得意とする分野毎に用いる手法や研究のアルゴリズムが異なることによるところが大きい。 たとえは,カンチャナブリの高地森林土壌におけるメタンの消失と,マングローブ林のシャコ塚の増加とを同じ次元で考えるには,二つに共通したパラメーターを用いて一元的に考察することが必要となる。その方が,話が単純化し,両者のつながりを見いだし易いからである。 そのための有効な方法が,安定同位体の利用であると筆者は考えている。ほとんどの化学反応では,物質の化学構造が変化するとともにエネルギーが出入りする。このとき物質を構成する同位体の存在比も化学反応のダイナミクスに従って変化している。
 つまり,安定同位体比は,生化学から地球環境問題までを同じ土俵で考えるための普遍的なパラメーターなのである。大気圏を経由した物質の非平衡移動を解明するために安定同位比を利用することが筆者らの企みである。
7.おわりに
 21世紀はアジアの時代と言われるが,アジアとはいかにも意味の広い言葉である。熱帯の天然資源の豊かさを目の当たりにすると,我々の住む温帯アジアが虚弱に見えて仕方ない。なにせ,東南アジアには迷惑なほど太陽がいっぱいである。人々は暖をとる必要がなく,食材も豊かで安価である。
 しかし,天然資源の無秩序な消費に支えられた経済の発展と人口の増加は,この地域の物質循環を大きく改変しつつある。人工化学物質の環境への負荷も増大の一途をたどり,多くの点で,日本が辿った道と似ている。
 しかし,我々が時間をかけて順繰りに取り組んできた経済,安全,教育,環境といった課題を,東南アジアでは同時にしかも短期に解決しなければならない。 経済成長がもたらす環境影響の予測と,将来必要となるかもしれない自然環境の回復作業のためには,現存する生態系の正確な理解が不可欠である。 生物地球化学的な地道な作業が,熱帯アジアにおける環境問題の解決に役立つものと信じ,研究を進めて行きたい。

大気圏環境保全部 大気計測研究室 上田真吾



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